自由民権運動の始まり
こんなこと習っていなかったよ。
教えてもらえなかったこと知ると少し得した気分ですね。
1874年(明治7年)からの自由民権運動において、様々な憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は、国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律、新聞紙条例、1880年(明治13年)の集会条例など、様々な法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。
私擬憲法の内容については、様々な研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことは、おおむね共通する。天皇の地位に関しては、言われるほど差がある物ではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎ見ていた。」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは、大日本帝国憲法と同様である。戦後に登場する「私擬憲法にみられた人権規程は天皇の大権により悉く抑え込まれた」というような意見(家永三郎ほか)は、この当時には見られなかった。
制定への動き
1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は、「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発した。この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法の研究して憲法草案を起草せよと命じている。元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。1880年(明治13年)、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、大蔵卿・大隈重信も「憲法意見」を提出した。このうち、日本国国憲按は、皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やプロイセン憲法(1850年)の影響を強く受けていたため、岩倉具視・伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見ともども、採択されるに至らなかった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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